プロフィール

栗城 史多(くりき のぶかず)

1982年北海道生まれ。大学山岳部に入部してから登山を始め6大陸の最高峰を登り、8000m峰4座を無酸素・単独登頂。2009年からは「冒険の共有」としてのインターネット生中継登山を始める。

「冒険の共有」は否定という壁を無くして、見えない山を登っている全ての人達の支えになることを最大の目的とし、秋季エベレスト無酸素・単独登山だけではなく、人や社会が持つ心の壁に挑戦。

普段は、企業や学校で応援し合うチーム作りと人材育成を専門とした講演を行い、人材育成のアドバイザーとしても活動。

2012年秋にエベレスト西稜で両手・両足・鼻が重度の凍傷になり、手の指9本の大部分を失うも、2014年7月にブロードピーク(標高8047m)に無酸素・単独登頂。復帰を果たす。

指を失ってからもエベレストに向かい続け、2009年以降、計8回(うち秋季6回、春季2回)挑戦。

2018年5月21日、8回目のエベレスト挑戦で下山中に滑落して帰らぬ人となる。享年35歳。


登山歴

2004年6月 マッキンリー6194m単独登頂

2005年1月 アコンカグア6959m単独登頂(ポーランド氷河ルート)

2005年6月 エルブルース5642m単独登頂

2005年10月 キリマンジャロ5895m単独登頂

2006年10月 カルステンツ ピラミッド4884m単独登頂

2007年5月 チョ・オユー8201m単独・無酸素登頂 7500m地点からスキー滑降

2007年12月 ビンソンマシフ4892m単独登頂

2008年10月 マナスル8163m頂上直下まで

 ※ネパール政府から登頂証明書の発行を受けていたためマナスル登頂としておりましたが、その後の指摘を受けて「頂上直下まで」と記載を変更しました。(2019年1月変更)

2009年5月 ダウラギリ8167m単独・無酸素登頂 6500m地点から生中継に成功 6500m地点からスキー滑降

2009年9月 エベレスト北側8848m メスナールート7750m地点まで

2010年5月 アンナプルナ8091m 7700m地点まで

2010年10月 エベレスト南側8848m 7550m地点まで

2011年5月 シシャパンマ南西壁8027m 7600m地点まで

2011年10月 エベレスト8848m サウスクロワールルート7800m地点まで

2012年6月 シシャパンマ南西壁8027m 6500m付近から滑落したが生還

2012年10月 エベレスト8848m 西稜ホーンバインクーロワール8070m地点まで。強風により両手、両足、鼻が重度の凍傷になり、両手9本の指を失う。

2014年7月 ブロードピーク8047単独・無酸素登頂

2015年10月 エベレスト8848m エベレスト8150m地点まで。ネパール大震災により北側(中国側)登山からネパール側に計画を変更。

2016年10月 エベレスト8848m エベレスト7400m地点まで

2017年5月 中国側のルートに挑戦したがブルーアイスに阻まれ、ネパール側のルートに変更するも途中で断念。

2018年5月 エベレストの南西壁に向かうも、7300m地点から下山する途中で滑落。帰らぬ人となる。


自撮りと生中継の歴史

2004 年に初の海外遠征として登ったマッキンリー(現在のデナリ)以降、どの山でもカメラを自分に向けて自撮り映像を多く撮影。

2006 年に、偶然出会ったテレビプロデューサーに自撮り映像を見せると、「普通は山にカメラを向けるのに、栗城は自分ばかり撮っている」と言われ、それがきっかけでヒマラヤのチョ・オユーからインターネット番組に向けて動画を配信。番組名は『ニートのアルピニスト はじめてのヒマラヤ』。

チョ・オユーでは悪天候で一旦下山したところ、「やっぱり栗城は登れない」というコメントが届いていた。

しかしその後、数日休養してから再び登り始め、無事にチョ・オユー登頂。

登頂後のコメントに「ありがとう」という言葉を見た栗城は、自分の挑戦が人に勇気を伝えられることを知り、『冒険の共有』としてヒマラヤからのインターネット生中継や動画配信を行うことを決める。

2009 年春には、ダウラギリ6500m 地点から初めてインターネット生中継に成功。

また、クレバス(氷河の裂け目)の手前にカメラを置いて、クレバスをジャンプして越える自分を撮影、その後もう一度クレバスをジャンプしてカメラを回収しに戻り、再びクレバスをジャンプして登っていく、という撮影も行う。

まだ自分でインターネット生中継できるUSTREAM やYouTube が日本で普及していなかったため、2009 年のエベレスト挑戦時にはYahoo! JAPAN 協力のもと、インターネット生中継を行う。

エベレストのベースキャンプからは「世界一標高の高い流しそうめん」、そして7000m 地点からは「世界一標高の高いカラオケ」を行い、その生中継に成功。

その後は日本に上陸したばかりのUSTREAM を使ったり、YouTube でのライブ配信など様々なSNS で生中継が可能となり、ニコニコ動画、LINE、Facebook などでインターネット生中継を行う。2018 年のエベレストからは、AbemaTVで生中継予定だった。


講演実績

否定という壁を無くして、見えない山(夢・目標)に登る人の支えになりたい。

そう思う栗城は、組織や個人のビジョンを引き出し、共有し、お互いに応援し合うことで失敗を恐れなくなるマインドを作るための講演を多く行いました。

人材教育を目指していた栗城は、多くの人に一歩踏み出す勇気を伝え、企業や学校、そして一般向けのみならず、スポーツ選手のメンタルトレーニングとしても年間80本の講演を実施。

企業では否定という壁を無くして、個人と組織におけるビジョンを引き出し、応援し合う社内文化やチーム作りに貢献。また学校講演や一般講演では、子供の夢の育て方から困難の乗り越え方など、自らのヒマラヤ挑戦におけるリアルな体験を基に、多くの人がそれぞれの山を登るためのヒントとなるような講演を多く行いました。臨場感溢れる栗城の講演は、多くの聴衆の心に響き、支えとなりました。


支援実績

<2011年東日本大震災後の現地支援>

2011年3月に発生した東日本大震災の後、現地支援で宮城県石巻市へ。

また同年8月には、栗城が北海道をベースにスポーツなど様々な分野で活躍しているプロの人々に協力を求め、福島の子供達に北海道に来てもらって1週間の冒険キャンプを行う『A-SHIFT JAPAN』を立ち上げ、実施。

北海道の大自然の中で、カヌーや川下り、ロードバイクなど多くの子供達が普段あまり体験できないようなことを、プロの指導の基に体験してもらうことができました。


<2015年ネパール大地震後の現地支援>

以下、栗城の言葉より抜粋

自然の豊かなネパールで2015年4月25日にマグニチュード7.8の大きな地震が起き、国民の7割が被災するという大震災がありました。ネパールは世界でも最貧国でありますが、日本の東日本大震災の時に日本に毛布5000枚を送ってくれた心優しい国です。

震災後、予定していた秋季エベレストに向けたヒマラヤ訓練をキャンセルし、被害の大きいゴルカ郡のラプラック村に食料生活用具と医療の支援に行きました。現地支援を行いながら、スマートサプライというシステムを使って現地の人達からの支援のニーズを聞き、ミスマッチを起こさないで寄付ではなく、共同購入して届けるという仕組みを作りました。ネパール事務局も立ち上げて、7カ所の村に雨風をしのぐためのトタン屋根や、毛布、米を支援することができました。支援して頂きました皆様に心から感謝申し上げます。

そしてプロジェクトメンバー全員と話し合い、これからは緊急支援物資よりも地震で倒壊してしまった学校などの教育に支援するべきと考え、サンクアサブア郡の村の学校2校の再建を決めました。

多くの方からのご支援のお陰で、2017年にはチャンダンプール村に「JANATA SECONDARY SCHOOL」、ゴラ村に「Shree Krishna Secondary High School」が完成しました。

また、一つ嬉しいことがありました。先日、僕が支援させて頂いていたティストゥン村の校長先生が日本の教育視察のために来日し、わざわざお礼のために会いに来てくれました。

トタン屋根が大変役立ったと、とても感謝していました。震災で失う物はあっても、決して一人ではない。世界の人がいるよと感じて欲しいです。

支援してくださった皆様に心から感謝申し上げます。